グリーゼ581g

血識を求めて遥彼方へ

#0旗揚げ

元来、人間は知り得ない存在だった。

しかし、一度知ってしまった以上、もう知らないわけにはいかないのである。

 

 

歴史が引いてきたレールをなぞるようにして身体に染みついた知識、いわば「血識」で、今の世界と、現実と戦う。それは楽しくて、綺麗で、輝かしい旅でもある。

 

そんな道を進まんとする、一人の人間の足跡を、ここに記そうと思う。

 

 

 

 

「グリーゼ581g」は、本当に役に立つ、本当に身になる知識である「血識」を探求するブログです。

 

学校で習うような平易な知識の裏には、想像もできないような、数多くの人間の歴史が、存在します。そんな歴史を探求し、「そもそも何なのか?」を考え、皆様の生活、ひいては人生にささやかな彩を与えられれば、と思っています。

 

高校までで習得する知識を中心として、知識を網目状になるように拡張していくスタイルで記事を執筆していくつもりです。

 

具体的プロセス

 

学校で習う教科だったり、学問というのは、体系化された知識の集合体を、便宜上人為的に分類しているに過ぎない。

 

知識とはほんとはそういう風に仕切られたものではない。

 

分類は人間の素晴らしい智恵で、先人たちの知識が現代にいたるまでキレイに整理整頓されて、発展を促す一方で、分類する人々の思惑が少なからず入り込むことも事実だ。特に学校での知識のカテゴリである「教科」は、(いいかは悪いかは置いておいて)愛国教育、反対立国教育など不純なものが盛りだくさんだ。

 

だから、「教科」の前提がある状態で、知識と向き合うことは、知識の裏にある不純な思惑すらも身に付きかねない。特に社会は分類した人の思想が色濃く反映され、重要な情報が削ぎ落とされていることもあるのめ注意が必要だ。

 

また、知識を習得する際には学ぶ順番、学ぶ優先度が少なからずあるだろう。

グレードのカテゴリには大きく分けて2つあると考えられる。

 

A)言語がなければかなりの抽象的事象は理解できない。

B)微分積分がなければ物体の動きは分析できない。

 

A)は知識を得るために必要で、考え方に直結する、云わば「メタ知識」だ。

情報を得るための語学、因果関係がつかめる論理的思考力、「思考」自体を思考する哲学などがこれにあたる。

 

B)はこの知識をもとにして新しい知識が得られる、云わば「ベース知識」だ。

数学・理科で言えば公理がすべてのベース知識になりうる。

 

このような知識のカテゴリに注目することで、知識の繋がりを明確にし、知識をより盤石なものにすることができる。

 

このような観点に留意して、知識を血識に変貌させていこうと思う。